ステージママの盲進振りが幼子を不憫に見せる。しかし、最後は見事なカタルシスに収まっている。
「ベリッシマ」(1951伊)
ジャンル人間ドラマ
(あらすじ) ローマ郊外の団地に住む主婦マッダレーナは、娘マリアを映画のオーディションに連れて行く。ところが、審査が始まるというのに肝心のマリアが迷子になってしまった。難儀していたところを売れない俳優アンバッチに救われ、どうにか2次審査まで通過することが出来た。喜んで帰ってきたマッダレーナを夫は諌めた。彼はマリアをもっと自由に育てるべきだと考えていたからである。こうして夫婦仲は徐々に険悪になっていく。それでもマッダレーナは諦めきれなかった。元女優の中年女性に演技レッスンを受けさせたり、ライバルがバレエを習っていると分かればバレエ教室に連れて行った。そして、ついにはアンバッチに勧められるままに全財産をはたいて業界関係者のコネ作りを始める。
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(レビュー) ステージママの奮闘を笑いとペーソスで綴った人情劇。
監督はL・ヴィスコンティ。ヴィスコンティと言えば冷徹なリアリスト、荘厳でオペラ的甘美を再現する巨匠というイメージがあるが、初期時代にはイタリアに発祥するネオレアリズモの牽引者でもあった。今作はその時代に作られた1本である。庶民が貧困から這い上がろうと努力していく姿、もしくは客観的に見れば少し狂っていく姿は、イタリア労働者階級の〝現実″を如実に表していると言える。だからこそ多くの人々が彼の作品に感動を寄せたのだろう。
本作で面白いと思ったのは、マッダレーナが暮らす巨大団地の風景である。団地の中庭には大きな広場があり、そこでは時々映画が上映される。庶民の唯一の娯楽が過酷な現実を忘れさせてくれる映画だった‥という所にヴィスコンティのロマンチストな一面が伺える。
マッダレーナはそこで映画を見て次第に娘をスクリーン・デビューさせようという気になったのだろう。何もないうらびれた生活に彼女は映画という<夢>を見つけ、それを手に入れようとしたのである。<現実>と<夢>、<影>と<光>を同じ空間に同居させた、この団地のロケーションは実に魅力的であった。
また、団地のすぐ前は多くの人々が往来する大通りとなっている。マッダレーナが住む1階の部屋は、厳密にいうと半分だけ地下に埋まっていて、窓を開けると通行人の足元が見える設計になっている。暗に低所得者であることを意識させるようなこの空間設計は、マッダレーナの暮らし振りを一層惨めに見せ、ここにもヴィスコンティのこだわりが感じられた。
物語はマッダレーナがマリアをステージ・デビューさせようと、あの手この手を使って奮闘していく姿をドキュメンタルに綴っていくものである。本人の意志を介さずひたすら突っ走るところにシニカルな笑いと児童虐待なのような怖さが入り混じり、決して感情移入できるように作られているわけではない。
しかし、ラストには感動させられた。その前段で描かれる編集室のシーン、試写室のシーン。このあたりから少しずつマッダレーナの心理変化が起こり始め、そこに見る側としても素直に擦り寄ることが出来るからであろう。ラストも上手くカタルシスが演出されていて見事な大団円に収まっている。
マッダレーナを演じるのは名女優アンナ・マニャーニ。強気なイタリア女というイメージをそのまま体現した熱演が印象に残る。とにかく彼女は全編に渡って語気を荒げて喋りまくる。強権的な母親像という、およそ観客から慕われない役所だが、そこを臆せずパワフルに押しまくったところに圧倒される。それとのギャップで見せるラストの変容も見事だった。
また、女のしたたかさを飄々と演じて見せた所にも上手さを感じた。中盤で夫婦喧嘩のシーンが登場してくる。例によってマリアを巡って夫と意見を対立させるのだが、ここでの周囲の主婦たちを巻き込んだしたたかな振る舞いは実に見事であった。多勢に無勢、これには夫も尻尾を巻いて逃げるしかなかった。
また、アンバッチと語らう川べりのシーンにも同様のしたたかさは伺える。虚をつくアンバッチを見事に返り討ちにし、大人の女の余裕で見せつけている。