大島渚の作家としての意地がほとばしる問題作!
「愛のコリーダ」(1976日仏)
ジャンルロマンス・ジャンルエロティック
(あらすじ) 昭和11年、東京・中野の料亭に定という女中が住み込みで働いていた。彼女は幼い頃に芸者に出され、娼婦に落ちぶれてここに流れ着いた悲しい女だった。そんな定を店の主人・吉蔵は目をかけてやる。やがて二人は肉体関係に溺れ愛の巣を構えた。戦争の機運が高まる中、二人はそこでひたすら愛し合っていく。
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(レビュー) 昭和の犯罪史に残る阿部定事件をモティーフにした作品。その過激な性描写から様々な波紋を呼んだ問題作である。
監督の大島渚は、日本では十分な製作ができないということでフランス資本の協力を得て今作を完成させた。尚、日本からは独自の映画製作を闊歩する鬼才・若松孝二が製作者として名を連ねている。かくして出来上がった作品だが、当時の日本では大幅に修正された上で上映された。その後、2000年に修正を極力抑えたバージョンがリバイバル上映されている。しかし、これも一部でボカシが入りパーフェクトな作品と呼べるものではなかった。おそらくフランスで公開されたものが最も完全な形として公開されたバージョンではないかと思う。
よく言われることであるが、この手の作品を"わいせつ″と取るか"芸術"と取るかは必ず問題になるところである。これは見た人それぞれが判断するしかないと思う。
画面に映る男女の性行為だけを見れば確かにAVと何ら変わらない。ただ、そこから見えてくる異常性愛。つまり、男の陰部を切り取ってしまうほどの狂気的愛。その意味を画面から汲み取ることが出来たならば、今作は紛れもない"芸術"映画ということになろう。自分は正にそうであった。理性を凌駕してしまうほどの欲望を人間は本来持っている‥という提言にノックアウトされてしまった。
一方で、このドラマには元になった事件があるわけで、そのことを考えると定のこの異常性愛にはホラー映画のような怖さも感じてしまう。着物や包丁、カミソリといったアイテムを使いながらサスペンスを盛り上げていく構成はエンタテインメントとしても上手く考えられており、中には思いのほかゾッとさせられるようなシーンもあった。
逆に、ホラーを裏返せばそれはコメディにもなりうるわけで、人によっては今作は極めてナンセンスな喜劇のようにも見れるだろう。男女の嫉妬と情念などというものは、ここまで想像を超えたものになってしまうと遠くの存在の物としてしか見れなくなってしまう。余りにも残酷且つ扇情的な定の行動と、それに翻弄されながら絡み取られていく吉蔵の憐れな姿が、もはやブラック・コメディのようにしか見えず感情移入する余地がまったくなくなってしまう。吉蔵を演じた藤竜也の飄々とした演技と、性欲の権化・定を演じた松田暎子のトラッシュな演技のギャップが喜劇のようにも見れた。
尚、今作は間違ってもメロドラマとは言い難い代物である。何故なら、実際の事件が示すように悲恋として強く打ち出すなら、当然キャラクターに対する感情移入が先導されてしかるべきである。しかし、本作にはそうした作劇上のプレマイズが成されていない。いくらリアルな愛憎を元にしているとはいえ、二人の感情にすり寄ることはできない作りになっているのだ。これでは純然たるメロドラマとしての抒情、つまり結ばれぬ運命にある「ロミオとジュリエット」のような感動は生まれようがない。
このように本作はホラーであったり、コメディであったり、見る人によっては全くガラリと鑑賞感を変える作品である。そこが面白い所だ。
しかし、一つだけ確かなこともある。それは冒頭で述べたように、セックスをこれほど浩々と映し出した作品はR指定の一般映画としては画期的であるという点だ。
同性愛や、公衆でのセックス、乱交セックス、SMプレイ、物を使ったプレイ、果ては第三者を巻き込んでの羞恥プレイ等、様々な絡みが登場してくる。ここまで曝け出して見せられると、正直頭を垂れるしかない。海外に資本を求めてまで完成させようとした大島渚の執念も感じられる。映画表現の限界というものを示して見せた彼の所業は正しく映画史に残る"事件″と言っていいだろう。
尚、性行為の背後に流れる三味の音楽や太鼓持ちの芸、寓意色の強い美術等、超然とした風景もエンタテインメントを成すピースとして大いに楽しむことが出来た。