これは一種のアウトロー映画として見るべき作品なのかもしれない。色々な意味で伝説的過ぎる内容。
「ゆきゆきて、神軍」(1987日)
ジャンルドキュメンタリー・ジャンル社会派
(あらすじ) 終戦直後、ニューギニアで起きた日本兵部下銃殺事件を追ったドキュメンタリー。部隊の生き残り、奥崎謙三の目線を通して事件の真相が露わにされていく。
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(レビュー) 映画冒頭で奥崎謙三のプロフィールが紹介されるが、その経歴たるや凄まじい。金銭トラブルから殺人を犯し、昭和天皇にパチンコ玉を発射し、天皇ポルノビラをばら撒いた。その後、参議院選挙に出馬し落選。田中角栄の殺人予備罪で逮捕されている。まぁ要するに、彼は戦争責任を過激に追及するアナーキストなのである。そんな彼が戦時中の銃殺事件を追及していく‥というのがこの映画である。監督・撮影は原一男。企画は名匠・今村昌平。
銃殺事件の衝撃性もさることながら、やはり今作の魅力は何と言っても奥崎のキャラクター。これに尽きると思う。
奥崎は事件の真相を暴くためにかつての上官を訪ね歩いていく。カメラはその姿を切り取りながら一触即発な光景をスリリングに切り取っている。
一体どんな状況で誰が処刑したのか?何故処刑命令が出されたのか?奥崎はかつての上官たちに詰め寄っていく。しかし、相手は口を閉ざし何も語ろうとしない。過去の悲劇を蒸し返したくないという思い、事件に加担した責任を逃れたくて何もしゃべらないのだ。奥崎と彼らの喧々諤々のやり取りがピリピリとした緊張感を生んでいて終始面白く見れた。
映画を観る限り、奥崎という男は普段は大人しくて物腰の柔らかい人物である。しかし、自分がこうと決めたら最後までやり通さないと気が済まないような所があり、インタビューでは、時と場合によっては過激な行動も辞さないと語っている。実際、映像の中で彼は上官たちと喧嘩になったり、数時間も相手を拘束して警察の厄介になったりしている。傍から見れば何をしでかすか分からない人物で、こういう言い方はどうかと思うが、良くも悪くもバイタリティに溢れた人物である。
あるいは、これは語弊があるかもしれないが、「奥崎謙三」=「エンタテイナー」という言い方も出来るかもしれない。カメラを向けると調子に乗っておどる芸人と一緒で、奥崎の過激な暴力、どう喝はある種パフォーマンスのようにも見れてしまう。思い出されるのが、アメリカで自作自演で過激なドキュメンタリーを制作しているM・ムーアである。彼ほどのエンタメ精神は無いにしろ、やはり奥崎という男も相当自己顕示欲の強い男なのだと思った。
尚、自分は基本的には暴力は何も生まないと思っている。但し、非暴力を貫いて不正を正せないのであれば、ある程度の暴力は必要なのではないか‥とも思っている。学校教育も然りで、善悪を教えるのための手段としてなら、時には厳しく躾けることも必要であると考えている。
本作に登場する元上官たちは、被害者の死を偲ぶようなふりをして皆口をつぐんでいる。どんなに詰め寄っても一言も語らない。このままでは真実は永遠に葬り去られてしまう。それを白日の下に晒そうとする奥崎の過激な暴力は犯罪スレスレかもしれないが、自分には一定の理があるように思えた。
このように、今作は120分全編に渡って奥崎という男の独壇場の活躍(?)が生々しく切り取られたドキュメンタリー作品になっている。そして、その一方で今作には作為的とまでは言わないが、ユーモアとペーソスが所々に配されている。このあたりには原一男監督のエンタテイメントの精神が感じられた。
例えば、騒ぎを聞きつけてやってきた警官に奥崎が敢然と立ち向かっていく所には、権力に屈しないアウトローとしての頼もしさが感じられるが、同時にそのやり取りにはどこかユーモラスな味わいも感じられる。
また、映画前半は被害者家族が登場して奥崎と行動を共にするのだが、事件の背景が一応解明されたところで彼らは画面から退場してしまう。困り果てた奥崎は、仕方なく縁故者を被害者家族に偽装させて元上官宅に乗り込んでいく。これも人を食っているとしか言いようがない。おそらくこの映画を見た相手は後になって「騙された!」と思ったに違いないだろう。
奥崎が乗る車も滑稽で笑えた。「宇宙人の聖書」「田中角栄を殺すために記す」という文字が大きく書かれたバンに乗って、選挙カーよろしくどこまでも走っていく。これらはすべて奥崎が自費出版した著書のタイトルだそうである。このタイトルからしてかなりヤバイ電波が入っているとしか言いようがない。
こうしたユーモアの合間には時々ペーソスも挿入される。例えば、奥崎が戦死した同年兵の母親宅を訪れるシーンにはしみじみとさせられた。終盤でその伏線が回収され、このあたりの構成も実に見事に計算されていると思った。
また、この映画は内容以外の部分でも、かなり問題作のように思う。これだけ被写体の私生活にズケズケとカメラを持ち込んで入っていったドキュメンタリー映画はそうそうないだろう。その後、原監督や奥崎は出演者から訴えられなかったのだろうか?少なくとも自分はそういった記事を目にしたことが無い。これは実に不自然なことだと思う。
何はともあれ、現代ではこのようなドキュメンタリー映画を撮ることは難しいと思う。第一にプライバシーの侵害で映画関係者が犯罪者になってしまう恐れがあるからだ。そういう意味では、他に類を見ないドキュメンタリー映画であり、今後こうした映画が公然と公開されることはおそらくないだろうし、あったとしたらそれは大変危険なことだと思う。